開催概要:伊能忠敬没後200年記念事業の一環として、地球の大きさと測量に係る歴史と宇宙技術によりきわめて精度よく地球の形が決られている現代の状況、ドランブルの子午線弧長展開式に変わる新たな手法などについてお話をうかがい、地を数量的にとらえようする測量技術によって、我々の地に対する認識が深まってきた跡をたどった。
日時:平成27年11月28日(土)14:00から16:00まで
場所:東京都千代田区麹町5-1 弘済会館
参加者数:55名

「地球の大きさと形を測る-その歴史における伊能忠敬-」

 古代中国では地は「平面」と考えられていた。そして夏至南中時における8尺の棒の日影長を測ることで「緯度に相当する位置」を定めていた(周碑算経の1寸千里法)。例えば洛陽(日影長1尺6寸)から北回帰線までの南北距離は1万6千里である。そして北極点までの距離も計算されている。地「平」説であるので、原理的にはもちろん間違っている。しかしこの測量法は実際に行われており、これに方位の測量値が加われば、例えば、「帯方郡から1万2千里」の邪馬台国(魏志倭人伝)の「緯度と経度」を知ることができる。

 我が国では、ヨーロッパの宣教師との交流を通じて地球球体説が知られるようになり、伊能忠敬のころの日本では地は「球体」とされていた。伊能忠敬の蝦夷地測量が船ではなく、陸路によった大きな理由の一つは、子午線弧長の測定から地球の半径を求めるということにあった。伊能忠敬によるこの測量は、フランスにおいてメートルの定義のためにDelambreとMe’chainが行ったダンケルク―バルセロナ間の弧長測量とほぼ同時期である。子午線弧長は楕円積分で表わされることから、Delambreは自ら楕円積分の級数展開式を導いて子午線弧長の計算をしている。また、DelambreとMe’chainは測量の手法として三角測量によっているのに対し、伊能忠敬の第1次測量はラランデ暦書を通じて幕府天文方が地球楕円体説の詳細を知るより前であったこともあり、地球を球として扱っている。また、測量の手法も、伊能忠敬は、精度上難のある距離測定を主体とした道線法によっており、角観測も小型の小方位盤を主として用いている等、技術的には当時の欧州との間にかなりの差異があったのも事実である。

 先人の偉業を検証するとともに、時代の制約についても正しく認識することは重要なことである。今回伊能忠敬没後200年記念事業の一環として、地球の大きさと測量に係る歴史と、宇宙技術によりきわめて精度よく地球の形が決められている現代の状況、Delambreの子午線弧長の展開式に変わる新たな手法の提唱等について述べ、地を数量的にとらえようとする測量技術によって、我々の地球に対する認識が深まってきた跡をたどる。

講演内容:

野上道男(東京都立大学名誉教授)

古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置

 古代中国の宇宙観は「地」は「平」、天も平行する面とする天動説であった。日影長の差と2点間の南北距離(例えば北極や北回帰線から洛陽まで)が比例するとされ(周碑算経の1寸千里法)、この天文測量値と方位に関する測量を組み合わせ、さらに縮尺という概念を取入れて、3世紀後半に広域地図が作られた(裴秀による、現存せず)。この数学と測量法は朝廷百官(文官)の常識であった。魏志倭人伝の想定読者と同じ知識で魏志倭人伝を読んでみる。




海津優(元国土地理院地理地殻活動研究センター長)

1800年前後の日本とフランス

 伊能忠敬の子午線測量とドランブルとメシェンによるメートルの定義のための子午線測量を比較し、ラランドやドランブルの時代のフランスと、技術的には1世紀遅れといわれる当時の日本の状況を比較し、その中での伊能の努力と成果を振り返る。




河瀬和重(国土地理院地理地殻活動研究センター研究管理課長)

我が国における子午線弧長の計算について

 欧州と日本における子午線弧長の計算の歴史、明治になってドイツ流の測地学が導入された際の陸地測量部における子午線弧長の位置づけ、今世紀初頭までの我が国における子午線弧長の扱いを説明し、これを踏まえて最近講演者が提唱し、我が国の測量において標準となった計算式について解説する。あわせて宇宙技術を駆使して求められている現在の地球の形と大きさについても述べる。




熱心な聴衆で埋まった会場