Home ニュース 講演会・地学クラブ開催報告 伊能忠敬没後 200 年・測量の日記念講演会「薩摩と伊能忠敬」開催報告

 標記講演会及び併催古地図展を開催した。概要は以下の通り。


1.講演会「薩摩と伊能忠敬」

日  時:平成30年6月3日(日)13:00~17:30
場  所:

鹿児島市中央公民館ホール(鹿児島市山下町5-9)

鹿児島市中央公民館

もとの鹿児島市公会堂で、皇太子(昭和天皇)御成婚を記念して市が計画、昭和2年(1927)竣工 建築家片岡安(かたおかやすし)設計 平成17年(2005)国の有形文化財(建造物)に登録

参加者数:400名弱
講演概要:

星埜由尚(東京地学協会副会長、元国土地理院長)

伊能忠敬とその業績

 伊能忠敬は、現在の千葉県九十九里に生まれ、長じて香取市佐原の豪商伊能家へ入婿し当主として家業に勤しんだ。49歳の時に隠居して江戸深川に隠宅を構え、天文方高橋至時の門弟となり、本格的に天文・暦学を学んだ。

 学ぶに従い、地球の大きさを知るため、子午線1度の長さを求めたいと言う意欲が生まれ、それを動機として幕府の許可を得て蝦夷地測量に始まる全国測量を行い、我が国初の科学的実測による日本図(大日本沿海輿地全図)を作成した。第一次から第十次に至る足掛け17年にわたる測量は、第四次まで忠敬の個人事業に幕府が補助を与えるかたちであったが、東日本測量の成果を江戸城で披露して評価され、忠敬は幕臣となり、第五次以降の西日本測量は、幕府の直轄事業となった。

 薩摩藩は、伊能測量に対して全面的に協力し、特に種子島・屋久島測量においては、大船10隻を用意して官民を挙げて支援した。薩摩藩の協力ぶりは、伊能忠敬測量日記に詳しく述べられている。

 伊能測量の成果は、明治以降も我が国の行政・軍事の両面に利用され、約100年間にわたって国家地図作成に貢献した。




鮫島安豊(種子島開発総合センター鉄砲館参与)

伊能忠敬の屋久島種子島の測量について

 伊能忠敬没後200年を記念して、東京地学会主催による講演会が鹿児島市で開催されるにあたり、種子島、屋久島に残る古文書を通して、測量の実態を迫ってみた。その概略を報告したい。

 1)屋久島の測量

 屋久島町歴史民俗資料館(宮之浦)に展示されている「楠川文書」は文化九年に記された庄屋文書で、庄屋の任務である土地の測量に携わった人夫の業務内容や従事した人夫の星取など測量の実態を知るのに大変貴重な記録である。屋久島は急峻な山嶺と大きな河川が島の周囲に10数本も流れ、船測を余儀なくされる。島の周囲には大きな花崗岩が転石し、その岩を上下に上り下りし、道なき道を測量している。屋久島は月に35日雨が降るといわれるごとく、測量隊は雨天に泣かされる28日間であったようである。

 特記すべきは、①幕府方19人、薩摩藩役人160人、協力村人総数1784人であったこと、②屋久島測量の所要日数13日間の内、測量不能日数15日間であったこと。

 2)種子島の測量

 種子島には「種子島家譜89巻」「道潔一代記 上・中・下巻」があり、測量の詳細が記されている。屋久島より種子島に着いたのは1812年(文化9年)の4月26日未明で5月1より測量をはじめた。屋久島安房から種子島氏の城下赤尾木浦を目指すが、逆風に襲われ、種子島の南部島間浦に未明に到着。島間村は夜分突然の大船団の入港に慌てふためく。

 赤尾木村へ早馬を飛ばし、種子島氏へ報告。百名におよぶ家臣らを翌日にかけて、島間村へ差し向けた。島間村庄屋を中心とする村人たちは、百数十名の深夜の来訪に赤尾木城の役人たち不在の中で、宿舎の割り振り、食糧の調達と大混乱であった。そんな中で,伊能忠敬は、翌日から、悪天候の中でも測量を強行しようとするが、種子島側の要請により、4日間延期される。測量隊を迎える事前に、薩摩藩の役人が種子島に渡り、旅宿の選定などが綿密に行われていたことは当然のことである。

 特記すべきは、屋久島測量に比較して、平坦な種子島は極めて通常の測量であったといえるが、それでも、測量期間25日間の内、雨天測量中止13日間で実質測量12日間と雨に泣かされる測量であった。




松尾千歳(尚古集成館長)

薩摩藩の天文・測量

 江戸時代、薩摩藩は日本の他地域より高い天体観測・測量技術を持っていた可能性が高い。

 薩摩で薩摩暦という独特の暦が作成されていた。その暦に日食・月食の予測が記されているが、その精度は極めて高い。宝暦13年(1763)の日食は、朝廷・幕府の暦官は予測することが出来なかったが薩摩の暦官磯永周英は的中させている。

 また、国立公文書館に幕府が作成させた国絵図があるが、薩摩藩が提出した国絵図は非常に正確である。元禄15年(1702)に薩摩藩が提出した薩摩・大隅国絵図は伊能図と遜色がないほどの精度である。

 17世紀末に造られた吉野疎水も、取水口の関吉(現鹿児島市下田町)と雀ヶ宮(現鹿児島市吉野町)までの約6㎞、勾配はわずか0.077度しかない。

 さらに、薩摩藩は鹿児島城下で大規模な埋め立て、甲突川の付け替えをおこなっている。地方でも天降川(現霧島市)の付け替え、川内川河口部に長さ700m余りの長崎堤防を築き干拓をおこなうなど、高度な測量・土木技術を持っていたようである。

 このような大規模な工事がおこなわれた所には、かつての海外交易拠点、唐人町があった。薩摩の測量・土木技術は中国から伝えられたものではないかと考えている。




原口 泉(志學館大学教授、鹿児島県立図書館長)

忘れられた島津斉興の時代

 伊能忠敬が「日本1の大難所」といった屋久島、種子島の測量はなぜ強行されたのか。 伊能隊は渡海が難しければ測量しないこととして出発している。薩摩藩は中止を伊能に陳情したが、幕閣の回答は実施であった。

 まず、幕閣の意図は海防(異国船対策)の強化にあったと考えられる。勿論、秘密主義の薩摩藩を牽制する意図もあっただろう。

 薩摩藩の実権を持つ島津重豪は「下馬将軍」と呼ばれるほど政治力があり、蘭癖といわれるほど西洋科学の摂取に積極的で、天文観測所の明時館(のちの天文館)を設立している(1779年)。また、琉球渡海の風聞があるほど南島への関心が強かった。二島測量には消極的ながらも歓迎すべきものだったと思われる。これが、薩摩藩が種子島家とともに測量に積極的に協力した背景であろう。

 二島の測量は技術的な問題にとどまらず、極めて軍事的かつ政治的な性格を帯びたものであった。




八島邦夫(元海上保安庁海洋情報部長)

薩英戦争と英国海軍による日本沿岸の海図作製

 英国は、1860年に日英修好通商条約(1858年)を受け、日本沿岸へ数隻の測量艦を派遣し、幕府に測量許可を申し出た。幕府は議論の後、幕府役人の同乗を条件に測量を認めたが、同乗した役人持参の伊能図を見た英国海軍は、その正確性を高く評価し、幕府に提供を申し出た。幕府は1861年に伊能小図を提供(図1)したが、英国は1862年以降、海図No.2347「日本」、No.2875「瀬戸内海」を始め日本沿岸の海図8図を改訂刊行した。

 薩英戦争は1862年9月の生麦事件の報復として、英国艦隊7隻が鹿児島湾に侵攻し、1863年8月15~17日の間、薩摩藩との間で行われた戦闘である。双方が甚大な損害を被ったが、薩摩藩は英国の力を知り、攘夷から開国へと大きく舵を切ったと言われている。英国艦隊が江戸湾から鹿児島湾への航行に海図No.2347「日本」(1863年5月刊行)を用いたのは確実であり、戦争終結後の1863年11月にはNo.372「鹿児島港」(図2)、No.358「九州」(図3)を作製刊行している。海図「鹿児島港」には薩英戦争時の薩摩藩の砲台陣地、英国艦隊の航跡、両軍の損傷状況のほか戦争時に測定した水深が、海図「九州」には英国艦隊の鹿児島湾航行時の航跡及び測深結果などが記載されている。

▲ 英国伊能小図の鹿児島周辺部分図(英国国立公文書館所蔵)
 
▲ 英国海図No.372「鹿児島湾」1863年11月刊行(英国水路部所蔵)
  古地図展展示資料No.17

  (クリックでPDF表示)
 
▲ 英国海図No.358「九州」1863年11月刊行(英国水路部所蔵)
  古地図展展示資料No.19

  (クリックでPDF表示)





2.古地図(パネル)展「伊能図および薩摩の絵図」

日  時:平成30年6月3日(日)から6月24日(日)まで

場  所:鹿児島県立博物館別館(県文化センター4階:鹿児島市山下町5-3)

展示内容:

小林善仁(鹿児島大学准教授)

古地図展「伊能図および鹿児島の絵図」

古地図パネル展「伊能図と鹿児島の絵図」 展示資料一覧

資料名作成年 [測量年]所蔵
1薩藩御城下絵図(鹿児島)寛文10(1670)年頃鹿児島県立図書館
2吉利郷惣絵図宝暦3(1753)年日置市
3旧薩藩御城下絵図(西南部)安政6年(1859)頃鹿児島県立図書館
4旧薩藩御城下絵図(東北部)安政6年(1860)頃鹿児島県立図書館
5元禄国絵図(薩摩国)元禄15(1702)年国立公文書館
6元禄国絵図(大隅国)元禄15(1702)年国立公文書館
7元禄国絵図(琉球国大島)元禄15(1702)年国立公文書館
8伊能大図(吹上)文化7(1810)年米国議会図書館
9伊能大図(鹿児島)文化7(1810)年米国議会図書館
10伊能大図(志布志)文化7(1810)年米国議会図書館
11伊能大図(佐多)文化7(1810)年米国議会図書館
12伊能大図(種子島)文化9(1812)年米国議会図書館
13伊能大図(屋久島)文化9(1812)年米国議会図書館
14測量器具国土地理院
15九州沿海図(第十・鹿児島湾)文化7(1810)年東京国立博物館
16九州沿海図(第十五・甑島)文化7(1810)年東京国立博物館
17英海軍海図(鹿児島港)文久3(1863)年英国水路部
18英海軍海図(鹿児島湾)明治11(1878)年英国水路部
19英海軍海図(九州・日本)文久3(1863)年英国水路部
20英海軍海図(台湾至日本及び中国沿岸)文久元(1861)年英国水路部
21西海道全図明治10(1877)年個人
22英文地質図明治35(1902)年鹿児島大学総合博物館

注1)この一覧表の順番は、実際の展示順と一部異なる。

注2)№14のうち、鉄鎖・間縄・量程車のレプリカは6月8日(金)から展示



3.参考資料

1)新聞記事

  • 松尾千歳 論点 鹿児島の歴史文化見直しを 南日本新聞 2018年1月15日
  • 岩松 暉 かごしま文化を語る 薩摩と伊能忠敬 2度も来訪、離島まで測量 南日本新聞 2018年5月23日
  • 松尾千歳 論点 古文書の伝承事情と活用 南日本新聞 2018年6月4日
  • 県立博物館別館 鹿児島の古地図を展示 朝日新聞鹿児島版 2018年6月6日
  • 伊能忠敬の偉業をひもとく 鹿児島市で講演会 種子・屋久、鹿児島湾も測量 南日本新聞 2018年6月8日
  • 屋久島測量 島民が手厚く支援 朝日新聞鹿児島版 2018年6月30日
  • 薩摩藩の精度 伊能図に迫る 朝日新聞鹿児島版 2018年7月1日

2)ウェブサイト

3)広報資料