Home ニュース 見学会・巡検開催報告 東京地学協会国内見学会「榛名山ジオツアー・日本のポンペイを訪ねて」報告

 榛名山地域は、新第三紀中新世後期の富岡層群を基盤とし,そのうえに新第三紀鮮新世~第四紀の火山岩類が堆積しています。その中で最も大きな面積を占めるのが、約50万年前ごろから活動を開始したと考えられる榛名火山です。榛名火山は安山岩質の成層火山で、その山頂には小型の陥没カルデラがあります。またその東山麓は、古墳時代の2度の大きな噴火の痕跡を残す多くの遺跡が見つかっています。今回の巡検は、これらの火山活動の歴史をしめす見どころを巡りました。案内者は5万分の1地質図幅『榛名山地域の地質』(2012)を執筆した産業技術総合研究所地質調査総合センターの下司信夫氏と竹内圭史氏です。参加者には本図幅と「榛名山巡検ガイド」他が当日配布されました。地質図を初めて見たという方々もおられましたが、観察箇所では、地質図を片手に熱心に質問をされ,配布したかいがありました。

▲図1 今回の観察地点位置図(国土地理院電子国土図を使用)

11月29日(1日目)

 四谷を予定通り午前9時頃に出発しました。直前のキャンセルがありましたが40~70歳代の元気な中高年総勢20名(運転手1名含む)で,野上会長も1参加者として参加したにもかかわらず車中でいろいろとご説明をいただきました。東京から関越道・上信越道を使って群馬県まで移動し、松井田妙義ICで降りて現地に向かいました。あいにくの曇り空で一時小雨模様でしたが、最初の見学(Stop1-1)中から天候は回復してきました。

Stop 1-1 中川渓谷に見られる榛名山の基盤

 鮮新世から前期更新世にかけて群馬―長野県境の碓氷峠からその北の霧積温泉にかけての地域では火山活動が繰り返し、現在の浅間隠山などの山々を作る火山岩類が噴出しました。榛名山地域はその東端にあたり、相馬川層と呼ばれる溶岩や火砕流堆積物が卓越する地層や、そのさらに山麓堆積物に相当する秋間層と呼ばれる堆積物が見られます。

 観察地点の中川渓谷の林道に沿ってこれらの堆積物を見ることができます。中川渓谷の入り口では相馬川層と下位の板鼻層の礫岩との境界が観察されます。板鼻層の最上部には凝灰質の砂泥層が挟まれています。また、その中には樹木の化石がしばしば見られます。不整合を過ぎてさらに上流に進むと、発泡の悪い安山岩塊を多量に含む火砕流(ブロックアンドアッシュフロー)堆積物や溶岩流を見ることができます(図2)。

▲図2 Stop 1-1の露頭 小雨模様でした、観察中に雨が上がってきました。

昼食

 相間川(あいまがわ)温泉ふれあい館クラインガルテン(高崎市国民健康保険保養施設。高崎市倉渕町水沼27)の名物の釜めし(昼食20食限定なので買占め状態でした)に舌鼓をうちました。車内から到着予定時刻を連絡しておき、ちょうど炊き上がる時に食べられるように塩梅しておいたのでひときわ美味しさを感じられました(図3)。

▲図3 左:ふれあい館概観、右:昼食風景

Stop 1-2 中室田の宮沢火砕流堆積物

 榛名山は、およそ25万年前まで活動していた古期榛名火山と5万年前ごろから活動を再開した新期榛名火山に分けられます。古期榛名火山の活動末期には、比較的大規模な軽石流が噴出し、山麓の広い範囲を蔽いました。この火砕流は複数回発生したと考えられますが、新期榛名火山の噴出物に覆われ、あるいは浸食されてその詳細はよくわかっていません。南山麓の高崎市中室田地区には、古期榛名火山の火砕流がまとまって露出しており、宮沢火砕流と呼ばれています。宮沢火砕流堆積物はやや暗い灰色をした軽石~スコリアを主体とする堆積物で、その厚さは厚いところでは20m以上あると見られます。

 今回観察した露頭は、中室田地区の岩井堂の祠の裏にあります。直径30cm以上の軽石塊を多数含む淘汰の悪い典型的な軽石流堆積物を観察することができます(図4)。

▲図4 左:岩井堂裏に向かって、右:Stop 1-2の露頭

Stop 1-3 上室田の白川火砕流堆積物

 25万年前ごろの宮沢火砕流の噴出以降、顕著な火山活動の証拠のない榛名火山ですが、5万年前に突如として大規模な噴火を引き起こしました。この噴火は榛名山の山頂部で発生し、八崎降下軽石を北関東の広い範囲に降下させたのち、白川火砕流と呼ばれる軽石流が火山体の広い範囲に流下しました。この噴火によって山頂部の榛名カルデラが形成されたと考えられています。白川火砕流堆積物は、榛名山の南~東山麓に広く分布しています。特に、上室田地域の榛名川に沿った山麓部には火砕流扇状地を形成しています。

 今回訪れる上室田荒神地区には、白川火砕流堆積物が厚さ20m以上にわたって発達しています。白川火砕流堆積物には浸食により深い谷が刻まれています。火砕流堆積物は一般に崩れにくく、高い崖を作ります。そのため火砕流堆積物に刻まれた谷は急な側壁と、比較的平坦な谷底を持つ独特の地形をつくります。

 谷の壁に露出する火砕流堆積物は、直径10cm程度の白色の軽石とさまざまな岩片が混在する淘汰の悪い堆積物です。軽石は、前の観察地点でみた宮沢火砕流堆積物とは異なり、角閃石の結晶を多く含みます。また、異質岩片の中には、明褐色の変質した火山岩ブロックや、花崗閃緑岩などのブロックがみられます。

 白川火砕流堆積物の上位には、主に浅間山から噴出した降下軽石層がいくつも発達しています。谷から台地に登る道路沿いには、白川火砕流堆積物のすぐ上に板鼻褐色軽石群と呼ばれる数枚の褐色スコリア層がみられます。これは、浅間山の西側にある黒斑山の噴出物です。また,その上にはよく目立つ、厚さ約30㎝の黄色の軽石層があります。これは浅間山の仏岩火山から噴出した板鼻黄色軽石と呼ばれる軽石層で、約2万年前に発生した浅間山最大の噴火の噴出物です。さらに、その上位にもいくつかの軽石層を見ることができます。

▲図5 Stop 1-3の露頭

Stop 1-4

 榛名火山の成長に伴って、それまでこの地域を流れていたいくつもの河川がせき止められ、その結果榛名山の西側にはいくつもの小さな湖が形成されました。そうした湖の堆積物が残されています。今回訪問したのは本日の宿泊地である倉渕温泉のすぐそばにある露頭です(図6)。

 この露頭では、ほぼ水平に堆積した火山砕屑物に富む砂泥層を見ることができます。堆積物中にはしばしば植物化石が含まれています。露頭の下部をみると、上部と似たような細粒の火山砕屑物が、ブロック状になって取り込まれていることがわかります。水中の静かな環境の堆積物が地震などのイベントによって乱され、再堆積したものと考えられます。いつどの様なイベントが発生したものかはわかっていません。

▲図6 Stop 1-4の露頭

 宿泊は、群馬県 ほたると浮遊宿 倉渕温泉『長寿の湯』(高崎市倉渕町権田2236)で、全館貸切状態でした(倉渕温泉は図1地点1-4のそばにあります).宿舎に到着したとたんに一人の参加者から余儀ない事情で帰京したい旨、連絡があり、さいわい近傍のバス停から最終バスにまにあうので、宿舎の車で送ってもらい事なきをえました。ぬるめの温泉に長くつかって一汗かいて夕食、その後は、幹事らの部屋で懇親会を行い、夜が更けていきました(どういうわけか誰の責任かはわかりませんが、女性の参加者がなかったのは惜しまれます)。

11月30日(2日目)

 幸いに天気も良く、本当に素晴らしい豪華な朝食をたらふく食べて一同8:30に宿舎を出発し(図7)、榛名山にむかいました。

▲図7 出発前の集合写真

Stop 2-1 榛名神社

 榛名神社は,すでに延長5年(927)完成といわれる『延喜式神名帳』に上野国十二社の一つとして位置づけられていた由緒ある神社で、今も参拝客が多数訪れています。さて、古期榛名火山は,直径25kmに及ぶ巨大な円錐状の火山体です。主にその中心部,現在の榛名富士の付近にあった中央火口からの噴出物によってつくられていますが(図8左)、それと同時に中央火口を放射状に取り囲むような噴火割れ目も形成されました。このような山腹割れ目噴火の火道が,榛名山の随所に見られる放射岩脈として観察できます(図8右)。

 今回訪れた露頭は、榛名神社の参道からその周辺にかけての露頭です。榛名神社は古期榛名火山の中腹に位置しており、榛名川の侵食により古期榛名火山の噴出物がよく露出しています。また複数の岩脈も見ることができます。榛名神社の参道を進むと,爆発的噴火によって火口周辺に堆積した火山角礫岩を見ることができます。角ばった同質の安山岩礫とその間を埋める基質が特徴的です、参道の途中には、厚さ数メートルの安山岩岩脈がみられます。岩脈の伸びの方向は、榛名火山の中心である榛名湖の方向を向いています。

▲図8 左:ご神体をなす「御姿岩」、右:浸食によって現れた岩脈遠望

Stop 2-2 榛名富士遠望

 八崎降下軽石と白川火砕流の噴出、それによる榛名カルデラの形成で始まった新期榛名火山の活動は、その後少なくとも大規模な噴火を繰り返し、古期榛名火山の山頂部から東部にかけて5つの溶岩ドームを形成しました。榛名カルデラの中央部にある榛名富士は、そうした新期榛名火山の溶岩ドームの一つです。榛名富士を構成する溶岩は、新期榛名火山を特徴づける大型の角閃石斑晶を含む安山岩です。

Stop 2-3 二ッ岳遠望

 榛名火山の最後の活動は、6世紀ごろに起こった2回の大噴火です。この噴火の最後に火口をふさぐように形成されたのが二ッ岳溶岩ドームです。二ッ岳溶岩ドームは角閃石を多量に含む安山岩溶岩からなります。榛名ふれあいの森の付近では、二ッ岳溶岩ドームから崩落した溶岩ブロックが多数みられます。その中には、まだ高温で柔らかい状態で崩壊したため定置後も変形して上下につぶれたり冷却割れ目が発達するものも見られます。観察地点の高根展望台付近からは、二ッ岳の全体を眺めることができます。粘性の高い溶岩が火口の上にせりあがって形成されたドーム状の地形です。高根展望台(図9)のそばの道路わきにはフェンスで守られていますが、二ッ岳から噴出した降下軽石層を見ることができます。火口から近い地域では、直径10cm以上の軽石が厚さ5m以上堆積しています。これらの軽石は、軽量ブロックの骨材や園芸用土として採掘されています。天気が良ければ高根展望台からは東側に赤城火山の全景、北側に谷川岳が,西側には草津白根山を見ることができますが、あいにくやや雲がかかっていました。

▲図9 高根展望台(Stop 2-3 )で、まじめに説明を聞く一行

 (Stop 2-4及びStop 2-5は時間の都合でパスし、そのかわりStop2-7発掘情報館を追加しました)

昼食

 伊香保温泉の「食の駅 カレーうどん 遊喜庵」で名物の水沢うどんを堪能しました。朝食にあれだけ食べたのに全員完食でした。

Stop 2-6 金井東裏遺跡とその周辺

 渋川市に位置する金井東裏遺跡は、2012年12月に鎧をまとった古墳時代の人骨「甲を着た古墳人」(成人男性)が鉄鏃や鉄鉾などとともに発掘されたことで一躍有名になりました。甲は小札(こざね)と呼ばれる小さな鉄板を800~1000枚も紐で繋ぎ合わせたもので、さらに甲内部から国内で初めて見つかった骨製の小札がつながった状態で出てきまし。その後も続けられた発掘調査で「首飾りの古墳人」(成人女性)や幼児・乳児系4人の骨も発見されました。現在は発掘は終了し埋め戻しが進んでいますが、発掘サイトの一部を観察することができます(図10)。

 金井東裏遺跡を含む榛名山の北東~南東山麓は、5世紀末におこった二ッ岳付近からの噴火によって発生した火砕流に襲われた地域です。この火砕流の主部は谷沿いに流れ、そのほかの地域には薄い堆積物しか残していませんが、高速の爆風となって広い範囲を破壊しました。金井東裏遺跡で出土した人物も、この薄い爆風堆積物の中から発掘されました。さらに、数10年後に発生した2回目の噴火により、この地域は厚さ2mを超える軽石堆積物によって埋め尽くされ、古墳時代の遺跡が完全な形で保存されました。榛名山山腹から北東にかけてはこの軽石層に埋められた多くの古墳時代の遺跡(竪穴住居や平地建物、祭祀遺構や古墳,畠のほか赤玉や馬の飾り金具ほか)が発掘されていて、日本のポンペイとも呼ばれています。

▲図10 左:発掘現場、右:Stop 2-6の露頭

Stop 2-7 発掘情報館

 赤城山ろくにある群馬県埋蔵文化財センターに併設された発掘情報館を見学しました(図11)。金井東裏遺跡から発掘された人骨のレプリカや遺跡のジオラマ模型、あるいはそのほか古代から近世に至るまでの群馬県内の遺跡の出土品などの考古学的資料を見学することができました。群馬県埋蔵文化財調査事業団の児島敦子上席専門員から熱心な説明を受け、参加者からも活発に質問が多く寄せられ、1時間ほどの予定時間をオーバーしそうになり、残念ながら3時頃帰途につきました。児島さんには篤く感謝する次第です。高速道路の渋滞もうまくすり抜け、予定通り5時頃に帰京できました。車内ではドライバーの好意で、「邪馬台国」などのDVD放映があり、野上会長の熱を帯びた反論解説も同時並行で行われ、おまけの楽しみを堪能できました。

▲図11 左:発掘情報館外観(Stop 2-7)、右:内部でまじめに展示の説明を聞く一行

(文責:行事委員会担当理事 加藤碵一)