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台湾ジオツアー報告「道中日記」番外編
▲図1 中央横貫公路(西川由香氏による)
2016年度東京地学協会海外見学会報告
東京地学協会員 長田敏明
はじめに

 筆者は、これまで、台湾での戦前の地学研究史に興味を持っていた。そのために、しばしば台湾現地の見学や資料集めのために、何回か台湾を訪れる機会を持った。

 台湾へ行って、見ると、もちろん日本にはない太魯閣渓谷の景観や車籠舗断層などの地質現象にであうこともしばしばであった。台湾では、数々の素晴らしいものを見学したり、素晴らしい体験をした。そのために、こうしたものをできるだけ、参加者のみなさんにお知らせするために、今回の巡検を企画したわけである。とりわけ、国立台湾大学の西川由香さんの協力を得て、良いジオツアーを企画することができたと思う。

 当初は、台湾中央山脈を縦断して、台湾の地形の醍醐味を肌で感じていただけるような巡検を企画した。旅行社との打ち合わせを通じて、中央山脈越えは、道路事情が著しく悪いということで参加者の安全を保障できないということで、周辺地域を回るような計画に変更を余儀なくされた。

 今回、花蓮から台中への移動は、飛行機を考えていたが、台湾へ行く直前の11月20日に、我々が搭乗する予定であったトランスアジア航空が倒産してしまい急遽鉄道移動に変えるなどのハプニングがあった。ともあれ、今回の巡検について、できるだけ詳細に報告し、今後台湾巡検を行う人々に参考資料を供したいと考えた次第である。

さて、今回の巡検では、羽田の東京国際空港の国際線団体集合場所に10時10分に集まった参加メンバー14名は、ミーティングルームで、参加者の加藤碩一氏(東京地学協会理事で前行事委員長)を団長として選出して結団式を行った。ここで参加者が各自自己紹介をして、いよいよ台湾へ向け出発した。本巡検メンバーは、東京地学協会の海外巡検の常連さんがたくさんおり、旅慣れている参加者たちばかりであった。

 なお、写真などの出典は特に記していない限りは、筆者によるものである。

▲図2 台湾ジオツアー案内図(西川由香氏による)
第1日(2016年11月28日)臺灣入国

 午後0時20分発の全日空台北松山空港行きで台湾へ向かった。筆者たちの乗った飛行機は午後3時20分頃予定より20分ほど早く、台北「松山空港」(時差1時間)に、無事、着陸した。入国手続き(約30分)を終え、台北市内に出たのは、午後4時頃であった。松山空港では、もう一人の案内者である西川由香(国立台湾大学地質科学系)さんが加わり、筆者たちの巡検団は、総勢15名となった。

▲図3 台北松山空港(背後に見える山並は基隆炭田の丘陵地帯)

 この時間では、どこの場所も閉館・、閉園時間となってしまい見学は困難なので、直接本日の宿泊のホテル(ロイヤルホテル:老爺飯店)へ向かった。途中台北市内の夕方の交通ラッシュにぶつかり、実際にホテルに着いたのは午後5時30分であった。午後6時に再び、ホテルのロビーに集合して、夕食の場所へ向かった。夕食場所は、ホテルから近い有名な小籠包の店(金品茶楼)で、もともと喫茶店か料理ら出発した店であるので、小籠包は、もちろんであるが、ポットの入ったお茶も美味しかった。ここで、八角の効いた台湾料理の洗礼を受けたのだが、それほど、香辛料は効いているとは思われなかった。台湾ビールも軽い味わいのよいものであった。この店を午後8時20分に切り上げて、台北市内の散策や、部屋でくつろいだりした人もいたようである。各自早めに就寝して、明日からの巡検に備えた。ツインルームを独り占めにして、大の字になって就寝した。

第2日(11月29日)戦前の日本人の足跡と大屯山周辺をたずねて
▲図4 地質調査所地質研究館
▲図5 陳政恒氏と参加者の皆さん

 この日は、午前8時30に老爺ホテルを出発し、先ず、中華民国経済部中央地質所を訪問し、地質展示館を見学した。ここでは、主たる目的は、地質図や資料を購入するためであったが、館内を案内して下さった地質資料班長の陳政恒氏(図5の左端に人)が、2週間前に開館した別棟の地質展示館があるということで、それについて熱心に説明して下さった。外国人がこの施設を見学するのはあなたたちが初めてであるということであった。この部屋は別館3Fの展示室(以前来た時には標本室であった)などを改造して作れられたものである。時々日本語交えて主として説明は英語で行われたが、この話にみな熱心に聞き入っていた。この機関は、戦前には、もと総督府(現総統府)にあった殖産局鉱務課(1944年に台湾省地質調査所となった)が、最終的にはこの位置に移設されたものである。展示の内容は、中学生程度の内容のものであるが、中には専門家を満足させてくれるような内容もあった。台湾についての知識が全くなく台湾の地質を知ろうと向きには、ちょうどよいと思う。余裕がある人は、ここを見学した上で、台湾の地質巡検を行うとよいと思う。台湾の地質を手っ取り早く知ろうとするとき、そのために役立つ機関として、さらに国立自然科学博物館がある。日本の「中央自然科学博物館」は東京にあるが、台湾の「自然科学博物館」は、台北にはなく台中にある。これについては、第6日目に見学することになっていた。これについては後述する。

▲図6 台湾地質区分図(同館図書室前の展示)

 次に向かったのは、西川さんが勤めている國立臺灣大学理学院地質科学系を訪問した。同大学旧館及び標本館の見学を行った。まず、平屋建ての標本館を見学した。この建物は、戦前からの建物で、古いものが良く保存されていると思った。中には、北投石(正式には放射性重晶石・日本の秋田玉川温泉でも同じものが発見された)のサンプルや、台湾中央山脈の生成のダイヤグラムなどが展示されていた。台湾中央地質調査所の見学を行った後であるので、この展示室は、こぢんまりとしている(20畳あまりの一室)が、わかりやすかった。学生の実習に使えるように、岩石や化石のサンプルが展示されていた。

▲図7 台湾大学標本展示館(西川由香氏による)

 さらに、次に向かった建物は、この標本館のすぐ隣にある3階建ての荘厳な建物であった。これは、早坂一郎が勤めていた旧系の建物で、台湾はどこでもそうであるが建物は旧日本時代の建物が現状維持され、あるいは修復され保存されている。この天井も高い建物には、2Fの階段脇の広い部屋は早坂の研究室(図8)で、3Fには標本室があり、ここには早坂が集めた標本(日本古生層の化石の模式標本や、ヨーロッパの標準的な各時代)やサンプル化石が保存されているが、手入れは残念ながらあまり行き届いているとは思われない。アーカイブ保存という観点から残念であると言わざるを得ない。余計なことであるがキューレーターなどを常駐させ、整理する必要があろう。

▲図9 早坂一郎の研究室前の廊下
▲図10 台湾大学3F標本室

 昔を知っている方々が次々に亡くなっている今日、早急に、記録を残す努力をするべきであろう。午前11時50分から午後1時10分ころまで、「圍爐」という火鍋屋(図10)さんで、昼食をとった。なかなか雰囲気の店で、野菜を中心とした豚肉などしゃぶしゃ風の食事であった。野菜などをつけて食べるのであるが、たれは、自分好みの味に調整できるようになっていた。筆者らは、はじめに、前菜として、箸休めが出た。幾つかある中でシジミを醤油で煮たものも選んだ。このシジミは緑黄色をしていて日本のシジミとちょっと違うような気がした。

▲図10 台北「圍爐」の火鍋料理

 いよいよ、これからが本当の野外巡検である。台北から高速道路を使って、基隆を経て、野柳地質公園へ向かった。約1時間くらいであろうか。ここは、その名の通りジオパーク(日本では、そのままジオパークまたは大地の公園)を訳したもので、台湾の代表的なジオパークである。以前来た時には、修学旅行生や中国人がたくさんいたが、今回はそうでもないような感じがした。

▲図11.野柳地質公園の入口
▲図12 女王の頭

 野柳海岸に見られる新第三系中新統大寮層の厚層砂岩層に発達したノジュール帯が波の力によって侵食されて形成されたもので、形態的に命名されキノコ型やロウソク型などに類似した形態をもつ岩がたくさんあった。野柳は、昔から有名なところで、今から百年以上前にペリーが1853年に日本遠征に来た折に、ここを通りかかって、キノコ岩のスケッチを残している。有名な女王の頭(図12)は、年々の波蝕によって、細ってきており、数年のうちには倒れてしまうのではないかと言われている。そのために、入口付近には、レプリカがすでに作られている。この付近では、大寮層の走向は、NE-SW方向で、この方向は、基隆炭田第三系の一般的な構造である。大寮層には、生痕化石やウニ化石を含んでいる。ここの見学を午後3;30に切り上げ、大屯山方面から台北駅へ向かう。

▲図13 小油坑の温度計
▲図14 付近の温泉変質
図15 小油坑での参加者

 途中、七星山の小油坑という噴気孔(図15)を見学した。台湾にはここ以外には火山はないが、ちょっとした噴気孔で、わが国では、箱根の大涌谷を小さくしたような景観(図14)であった。設置されている温度計を見たらなんと14°Cであった。ちょっとした上着が必要な温度であった(図13)。

 ここから、大屯山(戦前は草山といった)の地形を満喫しながら、この日の宿泊地である台湾北東部の要衝都市である花蓮へ向かう列車に乗るために台北駅へ向かう。午後5:30に台北駅に到着し、切符を購入し、午後6:20台北発台東行きの普悠馬号(振り子式電車)にのって、北回線をとおって東海岸の花蓮へ向かった。

 花蓮へは午後8:28に到着した。定刻より8分遅れての到着である。夕食は台湾式の弁当ですませたが、この弁当は、いわゆる鶏肉弁当で、八角入りの甘醤油煮の鶏腿がそのまま入っていた。たいへん食べにくかったが美味しかった。この弁当の駅売りは、日本式のものが踏襲されている。その証拠に、弁当売りの掛け声は「べんとう」である。花蓮は日本統治時代に、サトウキビの栽培とその積出港で栄えた町であった。

 台湾のどこの都市でも、夜市があり、だいたい十時ころまで明るいところがあり人で賑わっている。花蓮もご多聞に漏れずホテルの近くには夜市があった。午後9:00に統帥(マシャール)ホテルに到着した(図16)。さっそくチェックインして明日に備えることにした。

▲図16 統帥ホテルから花蓮港を望む
第3日(11月30日)太魯閣渓谷の基盤岩類(臺灣の屋台骨を見る)

 本日から巡検の舞台を東海岸に移し、台湾島の基盤を作る地層群の見学と変動している台湾の姿を見学する。うち本日は、太魯閣渓谷の見学である。

 朝早起きをして、ホテルの近くで開かれていた朝市を見学して、買い物をした参加者もいたようだ。筆者も、この朝市で買ったちいさな台湾バナナの御相伴にお預かった。小さいがなかなか独特のコクがありおいしかった。 本日は、台湾の基盤を作る大理石(結晶質石灰岩)と黒色片岩の見学である。臺灣の古い地層は太魯閣渓谷を中心に見学することができる。

             
▲図17 石材工場で、所長
▲図18 工場で説明を受ける加藤団長

 朝8時30分にホテルを出発し、先ず、石材工場を見学した。花蓮は台湾では有名な石材の町で、外国産の石材や台湾国内で産する石材を販売する店が集中している。石材工場では、端材は拾ってもいいということで、みなはなるべく大きくなく軽いもの選んで、それぞれ拾っていた。中には腕足類化石の入っている石灰岩を見つけた参加者もいた。この石材工場を、午前9:30に発ち、太魯閣のビジターセンター(午前10時ころ)の見学をはじめとして、天祥まで太魯閣渓谷の主だったところを見学した。

▲図19 太魯閣ビジターセンター

 次に太魯閣渓谷を散策するために、燕子口でバス降車して九曲洞まであるいた。その前から散策できるが、筆者たちはヘルメットがないので燕子口から九曲洞まで、旧道沿いを約2km程度歩いた。この間に分布しているのは大南澳系の大理石(結晶質石灰岩)と黒色片岩類である。慈母橋の袂には、黒色片岩の露頭があった。太魯閣は隆起の最前線で、立霧渓は第四紀のはじめにできたと考えられる隆起準平原の名残の1200m内外の平坦面を削って一気に深い谷を形成している。中には、燕子口のように立霧渓の幅がわずか数十mのところもある。

                         
▲図20 九曲洞付近の立霧渓
▲図21 慈母橋
▲図22 天祥の河岸段丘面

 太魯閣には、ほとんど平坦な場所はなく、天祥にわずかな平地がある。ここで昼食のとれるレストランは、「晶英賓館」という名のレストランが一つしかなく、我々もここで食事した。天祥は太魯閣の中で、河岸段丘が発達して、集落が立地できる唯一の場所で、このレストランは、中華風の飲茶料理であった。かつて、ここは、タロコ族の集落の中心であった。午後1:00ころ、ここを出発して、緑水景観区へむかった。ここでは、この景観区にあるビジターセンターの見学と周辺の散策をした。そして、かつてのメインストリートであった緑水歩道の入口のあたりを見て回った。周囲には大南澳系の石灰岩が分布している。途中で、タロコ族の民俗村の見学も考えたが、清水断崖で暗くなってはいけないので先を急ぐことになった。

                   図23 緑水歩道入口の吊り橋入口 図24.中央横貫公路には、こうしたトンネルがあちこちにある。

 本日の最後の見学地の清水断崖は、ここからほぼ1時間の距離にあった。今どきは、午後5時頃に日没ということで、暗くなることが心配であったが、午後3時過ぎに到着し、十分にまだ明るさが残っており、清水断崖(図25)の雄大な姿を望むことができた。ここは、台湾中央山脈の北東端の部分が、台湾海溝に落ち込んでいるのである。新潟県の親不知海岸を似たような景観を呈している。

▲図25 清水断崖の碑
▲図26 花蓮側から蘇澳を見た清水断崖

 この日は、朝見た石材工場の経営している石材展示場と販売店(図27)で、食事の前に、軟玉のネフェリン製の製品を見て回った。ここではジェダイトの翡翠はなかったが軟玉の質のよい製品が格安で販売されていた。店主のややたどたどしい日本語のトークに耳を傾けながら、展示即売しているヒスイを参加者のみなさんは購入していた。その後、夕食の場所(午後6時~午後8時30分)へ向かい烏骨鶏の入ったスープや、ブリの刺身やゆでた伊勢エビなどのとても豪華な山海の珍味に舌鼓を打った(図28)。午後9:00頃に宿舎の統帥ホテルへ戻り、各自就寝した。

▲図27.石材展示場にて
▲図28 花蓮での豪華な夕食
第4日目(12月1日)花東縦谷の地形を見ながら南下し、八仙洞で隆起海岸地形を見る。

  この日は、昨日と異なり花蓮の南方への巡検である。花東縦谷は、台湾東部にほぼ南北に走っていて、台湾中央山脈(ユーラシアプレート)に海岸山脈(フィリッピンプレート)の上にのし上げている最前線である。この花東縦谷花蓮から南下し玉里へ向った。花東縦谷は、この付近で幅がつまったり広がったりしながら、台東の南部まで連続しており、また、海岸山脈西縁にそって見られる花東縦谷断層にそっている。台湾中央山脈から流れ出る多くの東西性の河川は、海岸山脈にぶつかって流れを北または南に変えているが、海岸山脈横断して先行性河川を形成している河川もある。これらの河川は、ほとんど川に水はなく、水無川となっていて、河川水は伏流している(図35)。

 この谷は戦前台湾の中仙道と呼ばれ、サトウキビの生産の中心地であった。途中、光復郷近くの日本時代の製糖工場(図29)のあとで、トイレ休憩や見学を兼ねて、立ち寄った。この工場は、一種のテーマパーク(図30)のようになっており、我々が訪れたときに中学生の社会科見学の生徒たちが訪れていた。

▲図29 旧製糖工場跡のテーマパーク
▲図30 このテーマパークにある池

 瑞穂付近の河原にでて、そこの礫を採集しようとした。しかし、バスが大きすぎて河原に行けずに断念した。道に入ったのは良いが、脱出するのに苦労した。

 海岸山脈の斜面はお茶の産地で、ここでも展示試飲即売場のあるお店で、お土産を購入している参加者もいた。目的地の玉里の町についたころには、昼食の時間になっていたので、豪華中華料理に飽きていたので、町のその辺にあった小さな店に入って昼食をとった。玉里は中華麺の産地で、私は、汁気のすくないラーメン風のものを食べた。さっぱりしていてそれなりに美味しかった。そのほかにちょっとした箸休めがあった。ここは果物の産地でもあるので、ジュースがあちこちで売られていた。大きめのサイズのジュースを買って飲んでいる参加者もいた。

▲図31.海岸山脈の御茶所で
▲図32 昼食の玉里ラーメン

 玉里付近の碑南渓にかかる玉里大橋では、かつての北回線の鉄道橋(現在はサイクリングロードとなっている)を変位させている花東縦谷断層(日本の中央構造線にあたる)の見学を行った。河原は、度重なる洪水による砂礫で満たされ変位の跡は隠されていたが、このサイクリング橋は、ほぼ中央部では、明らかに断層によって変位している。この断層はクリープしていて、現在も活動を継続中である。それが道路の段差となって表れている。

▲図33 玉里付近の説明版(傘で示す場所が、
 鉄道がずれている所)
▲図34 玉里橋の上のプレート境界
 (加藤団長の立っている所)
▲図35 玉里大橋に断層運動によってできた段差(赤字の所)

 次に、玉里の南の最近できた玉長トンネルで海岸山脈を縦断して太平洋側へでた。この辺りが花蓮県長浜郷(ちょうひん)で、この北端にある八仙洞を見学した。台湾の東海岸は、全般的に隆起の傾向で、各時期の隆起海食洞が海食崖に並んでいる。ここでは、そのうち一番近く大きい海食洞(霊芝洞)を見学した。洞口は高さ12m幅5mくらいの大きさで奥行きは5mくらいである(図36)。かつて、新石器時代人が住んでいたようで、遺跡が発掘されたことがある。現在はコンクリートで整地されている(図38)。

 ここから10分足らずで、到達する北回帰線の碑(図38)を見に行った。改めて台湾が南の国であることを認識した。少々暖かいが、気候は日本の秋に似ている。この見学が終わったのは4時半くらいであった。本日の予定を無事終え、海岸山脈に沿って海岸を北上して帰途に就いた。花蓮渓の河口が見えて、海岸山脈の北端が見れたときには、今日も終わり、この巡検もあと2日で終わるのだということを実感した。台湾に5泊の予定で来たがあっという間の感じがする。

 統帥ホテルに着いたのは、午後5時30分ごろであった。午後6時にロビーに集合し、あらかじめ予約をとっておいた、ホテルから徒歩5分くらいの大衆的な餐庁(レストラン)で食事をとった。小籠包や餃子を主にしたこぢんまりとした店で、20人も入ればいっぱいになってしまうような店であった。食事が終わってホテルにもどったらなんと午後8時前であった。この時間には寝られないということで、花蓮の町の散策した参加者もいたようである。

                               図36八仙洞(霊芝洞)図37霊芝洞内を散策する参加者 図38北回帰線の碑  

 この巡検は、明日からは、場所を台湾西部の山麓地帯へと移して活構造を観察することになるが、台湾で描かれている下図(図39)のような、断面がほのみえてきたような気がした。

 西部の状況を詳細に理解するのは明日からになるが、さてどうなることか。

 台湾の地質を理解するには、露頭のオーダーから、台湾島全体のオーダーへ、さらにアジア大陸東部へとオーダーを変えて考えないと、正確には理解できないと思った。

▲図39 台湾島の東西断面(竹山車籠舗断層保存館の展示による)
第5日(12月2日)台湾西部の活構造の見学

 本日からは、見学場所を台湾西部に移し、西部の丘陵地帯と中央山脈の境に発達する車籠舗断層とそれに関連する施設の見学である。

 統帥ホテルを午前8:00出発し、花蓮駅へは約10分で到着した。午前8時38分発樹林行きの普悠馬号で台北へ向かった。花蓮は、日本統治時代に、開発された港町である。図40は、花蓮から向かう列車の中からとった写真であるが、どこか昭和の街並みのような気がした懐かしい感じがした。

 北回線も花蓮から複線である。羅東で停車したが、この列車は、その次は台北である。花蓮に来るときには夜で何も見えなかったので、今度は、朝なので、車窓の風景も良く見えた。花蓮から羅東までは、右側に太平洋が良く見えた。新城駅付近は立霧渓の出口で、この辺りの河川の砂礫の生産量は多く、河川は水無川となっていた(図41)。隆起量が多く、降水量が多い台湾では当然のことであろう。北回線は、一昨日に見た、清水断崖を縫うようにして走り、羅東から台北へは、基隆川に沿って走るようになっている。台北へ向かうにつれて天気が良くなった。

▲図40 花蓮駅の様子
▲図41.立霧渓の河口部(水無川)

 さらに、台北駅で台鉄高速鉄道に乗り換えて台中に向かった。午後午前11時31分発で台中駅の到着は、午後0時11分着である。時間的に余裕がなく、弁当による昼食となった。僅か40分程度で、食べて処理しなくてはならなかった。この弁当は、予想外にボリュームがあった。

 台中駅に迎えに来ていた専用バスで、竹山車籠舗断層保存館(図42)を見学するために南投県の竹山郷へ向かった。ここへは、午後2時頃に到着した。竹山は、大甲渓南にある集落で、畑が目立つ普通の台湾の町であった。西川さんの話によると、この断層の露頭は、1999年の集集地震以来、保存の話があって、発掘も何回か行われ、埋め戻されたりしていたそうである。地震から10年が経過して、再び保存の機運がたかまり、このようなものが建設されたそうである。展示館はさほど大きくはないが、日本語の話せる解説員もいるので便利である。

▲図42.竹山車籠舗断層保存館
▲図43 同館入口の剥ぎ取り断面

 竹山車籠舗地震断層保存館は、展示館と露頭を保存するために建てられた建物とがあり、展示館には、断層の剥ぎ取り断面が展示されている(図43)。その断面の詳細なスケッチが展示されている(図44、図45)そして、地震計や地震に対する防災教育や地震の歴史などの資料展示がある。最初、筆者たちは映像館で、車籠舗断層についてもビデオを見た。それから剥ぎ取り断面などをみて、実際の露頭断面を見学した。この断層は繰り返し活動しており、総計5回ほど活動しているそうである。車籠舗断層は、低角度の衝上断層で、東西方向の圧縮応力で形成されていると考えられている。

▲図44 車籠舗断層北面のスケッチ
▲図45 車籠舗断層南面のスケッチ

 次に、もう一つの車籠舗断層に関連する展示館の見学をするために台中市霧峰の9.21地震教育園区へ向かった。ここは、1999年9・21の未明に起こったM7・8の集集地震で倒壊した、光復中学校をそのまま保存したものである。この地震が授業中に起こったら大変であった。この地震が未明に起こって生徒がいなかったことが不幸中の幸いであった。

 ここには、午後4時頃到着したが、閉園まであと1時間しかないということで、急いで6つの見学セクションを見学した。ここも、日本語のわかる解説員(図47)がおり、この人の案内で、少し早足になったが、たっぷり1時間見学させていただいた。見学の導線に沿って、各展示物が配置されていて、見学者を飽きさせなかった。光復中学校の校庭のアンツーカーが変位し小崖が形成されたが、これをまじかにみることができた。集集地震で車籠舗断層が動いて校庭に段差を生じたのである。この断層によって礫層が変位しているのが見られた。

▲図46 9.21地震教育園区入口
▲図47地震教育園区の案内女性

 光復中学校の破壊された校舎がそのままで残されていた。日本でも、震災遺構の保存が取りざたされているが、ここでは、犠牲者は一人もいなかったので、保存論議が俎上に載せやすかったのかもしれない。当たり前かもしれないが、図48と図49に示されるように同じ断層でも、場所によって現れ方非常に異なっている。

 各所に防災教育の必要性を説くパネルや噴砂現象の簡易実験装置や建物の倒壊実験の装置などが置かれ、視覚的にも訴える展示内容となっていた。午後5時に閉館の時間であったが、閉館まで、熱心に解説して下さった解説員女史に感謝する次第である。

▲図48.霧峰での切れた礫層
▲図49 竹山での礫層をきっている断層露頭

 以下に9.21集集地震で破壊された光復中学校の様子を2.3紹介する。いわば震災遺構であるが、台湾では極めて、良く保存されていて、防災教育に貢献している。地震が起きてやがて17年、高校2年生以下の人たち、この地震を知らないことになる。若い人たちに継続した防災教育は不可欠であろうと思われる。

▲図50 校舎の破壊(1)
▲図51 校舎の破壊(2)
▲図52 校庭トッラクのアンツーカーの破壊(断層崖に沿って変形している)

 ここから、今日、宿泊する台中金典酒店へと向かったが、ちょうどまた、交通ラッシュの時間で、小一時間もかかってしまって、このホテルに午後6:30に到着した。夕食は、このホテルの15Fの金園餐庁で午後7:00からということで15Fの受付に集まった。ここの料理は、これまでのものと同様に、豪華版の中華料理であった。午後8:30分頃に打ち上げて、午後9:00には、各自部屋に戻った。

第6日(12月3日)台湾の自然科学博物館の見学と帰国

 いよいよ今日は、はじめ5泊は結構長いと思っていたが、あっという間に帰国の日を迎えた。台中で、金典酒店に宿をとったのには理由がある。それは、このホテルが、今日訪問する国立自然科学博物館が徒歩でも行けるほど近かったからである。この日の移動を考えてて配慮されたのであった。したがって、本日の集合は、ゆっくり午前8時50分であった。予定通り、博物館へ出発。午前9:00に到着、ちょうど開館の時間で、入場券(65才以上は無料、パスポートを見せて入場した。ほかの施設もほぼ同様)を買って、さっそく入場した。展示の要所要所には解説員がいた。この日は土曜日とあって、小学生や中学生が多く訪れていた。

 多くの展示館があり、よほど対象を絞って見学しないと1時間30分くらいでは、とても見切れなかった。筆者は、科学センターと生命科学館とを見学した。参加者の糸魚川名大名誉教授の話では、国立台湾大学の先生が監修して日本の丹青社が施工したそうである。案内が漢字で書かれているせいもあるが、何となく日本の科博に似ている感じがした。科学センターには、世界の化石の展示があり、ハミテスという白亜紀前期のアンモナイトの完全標本や、ナウマンゾウのレプリカが展示されていた。このには、臺灣の鳥類の剥製の展示があり、豊富な台湾の鳥類相の一端を垣間見られた。

▲図53 白亜紀アンモナイト
▲図54 ナウマン象のレプリカ

 生命科学館では、生命の進化の過程が詳細に解説されており、各所に説明のために、模型が置かれていた。地質時代のうち顕生代に入ると、そのころ生息していた古生物の復元模型が展示されていた。その他に、大きな植物園があり、亜熱帯の植物の生態展示がるが、そこまでみている時間はなかった。午前10:30に博物館の受付のある広場に集合して、バスに乗って、台中市の中心にある大遠百デパートの2Fの餐庁で、昼食をとった。食事を終わって、12:00時に台北松山空港へ向かった。

 台中から台北へは、高速道路で、約2時間の距離である。途中のSAでトイレ休憩をとって、午後2時20分頃に空港へ到着した。参加者たちは、すぐに、チェックインし、フライトまでの時間、台湾元を日本円に換えたり、免税品を購入していた。

 筆者らの乗った飛行機が台北松山空港を発ったのは、午後4時20分であった。約3時間、筆者たちの乗った飛行機は、午後8:20予定より早く羽田空港に到着した。入国手続きを終わって解散したのは、午後9:00頃であった。

あとがき

 筆者が本年4月より、計画していた、台湾ジオツアーも、2016年11月28日から12月3日までの5泊6日の日程で行われた。参加者の皆さんが、何事もなく、無事終了し帰国できて何よりであった。これも、参加者や現地で、いろいろ手配して頂いた共同案内者の西川由香さんや、巡検団長として、なにくれとなくお世話いただいた加藤碩一氏の協力の賜物の巡検であった。

 さて、台湾と言っても、狭い島であると思われがちだが、九州島よりちょっと狭いくらいの島である。人口も約2500万人ということで、台湾を一回りするには、最低でも一週間かかるくらいである。今回は、やっと北半分を回ってであろうか。いつかは、南部をめぐって、台湾一周を完成させたいものである。

 いろいろ懸念事項があったが、特に香辛料のきつい台湾料理に合わない方がいるのでないかと心配していたが,結果は杞憂に終わった。小さな変更や結構ハプニングがあったが、臨機応変に対応することによって乗り切れたように思う。

 ここでは、専門的な巡検報告については、産総研の小松原琢研究員にお任せすることとし、筆者は、台湾地学ツアーについて道中日記風に肩の凝らない内容を報告することにした。