東京地学協会主催の海外見学が、平成26年(2014)9月6日~9月13日に実施しましたので以下に報告します。

現地案内者報告

法政大学 漆原和子

 平成26年9月6日から9月13日にスロベニア、クロアチアのカルスト地形の見学旅行を実施した。参加者は案内者も含めて14名であった。全行程の見学は、スロベニア科学アカデミー、カルスト研究所の全面的なサポートによって実施できた。

 見学旅行に先立ち6月14日、講演会を実施した。8月25日は、参加者に対する説明会を実施し、現地での見学事項、行程の説明を行なった。

 カルストの用語の発祥の地でもあるスロベニアのクラス地方とアルプス山地、クロアチアのベレビット山地とその内陸地方を見学対象とした。これらの地域は、ネオテティスの海に堆積した厚い石灰岩が分布する。アルプス造山運動によりスロベニア北部のアルプスが隆起し始めると、古第三紀にはアドリア海側は浅い泥の海になり、フリッシュを堆積した。しかし、フリッシュは単純に中生代の石灰岩の上に累層しているのではなく、押しかぶせ構造、断層などにより乱されている。北部のアルプスでは、東西方向に主要な断層が走り、スロベニアの南西からクロアチアのベレビット山地ではディナリック方向(北西から南東)が卓越している。この地質構造は山脈の方向、主な断層の方向、盆地の分布方向を決定している(第1図)。石灰岩の溶食によって生じる地表の凹地はドリーネ、ウバーレ、ポリエなどの用語が用いられているが、規模の大きいポリエの分布はこの構造線の方向に沿って発達している。

▲第1図 主要な構造線

 ポストイナの位置は、アドリア海岸とパノニアン平原を分かつ要の位置に相当する。ポストイナはフリッシュに覆われた盆地に位置するが、ポストイナ洞窟はフリッシュに押しかぶせた白亜紀の石灰岩のなかをフリッシュの表層を流下した川が流入する。町の東には低い峠があり、ローマ時代以来、繰り返された戦争のたびにこの峠の争奪戦が繰り返されてきた。ポストイナから北西にカルスト台地が広がる。台地は白亜紀の厚い石灰岩が分布し、台地上は多くのドリーネが分布する。このため降雨はドリーネから地下川に流入し、地表は乾燥し、まさに石ころだらけの台地が広がる。カルスト台地の地下水は、北西のテイモバに流下し、イタリアのアドリア海岸で大量のカルスト湧泉として湧き出る。一方ポストイナ洞窟からの大半の地下水は、いくつかのポリエを経てサバ川、ドナウ川を経て、黒海に流下する。

 炭酸塩岩の作るカルスト地形の大きな特色は、二酸化炭素を混入した水に触れる時間が長ければ長いほど、卓越した溶食地形が発達することである。また温度や圧力に急な変化があると、過飽和になったカルシウムが再結晶する。洞窟内で結晶すると、トラバーチンと呼ばれる固い結晶からなる石灰華段丘や鍾乳石をつくる、地上で析出すると、シアノバクテリアの活動を伴ない、孔隙率の高いトウファと呼ばれる柔らかい結晶が地形を作る。炭酸塩岩の溶食と再結晶が作る地形がスロベニアとクロアチアのアドリア海岸とその内陸部でよく観察される。見学の行程にしたがって、以下に見学した事象を述べる。

行程
2014年9月6日

 羽田空港出発

2014年9月7日

 ベニス空港からポー川のデルタ地帯を経て、バスでポストイナにむかう。

2014年9月8日

 スロベニア科学アカネミーのカルスト研究所にて、地質、地形の講義を聞く(写真参照)。

▲カルスト研究所における講義の様子(羽田撮影)

 その後、ポストイナから標高約400mのカルスト台地の南東にあるシュコツィアン洞窟を見る。1981年にUNESCO自然遺産に登録された地下の峡谷をみる。観光洞は5.8km、地下水面は海抜約214mである。過去に地下川の水位は132m上昇したこともある。レカ川が流入し、出口では陥没ドリーネがカルストウインドウをなしており(羽田氏の写真参照)、洞内を経た地下川はドリーネ底に顔を出すが、再びカルスト台地の地下を経て、アドリア海岸に湧出する。カルスト台地は第二次世界大戦後植林した黒松(Pinus nigura)が生育し、かつての荒涼とした石ころだらけの地表の景観は見られない。しかし、耕作はわずかに土壌の厚いドリーネ底のみが可能である。糸魚川登美子氏がその様子を写真で示したので参照されたい。カルスト台地の地表には規模の大きいドライバレーが2か所に残る、時代決定は困難であるが、かつて豊かな地表水があったことを示す。一方、台地の地表には巨大な鍾乳石の風化したものが線上に数キロメートルにわたって分布する(北村氏の写真参照)。これは紛れもなくかつての地下の洞窟が、今は天井部分が溶けてなくなり、地表に露出していることを示す。しかし洞窟の形成年代を知る手立てはない。台地上では無数ともいえるドリーネから地下へ降水が流下するため、人々は雨水をためた共同井戸を管理し、その水を使用せざるを得ない。村々では水確保の工夫を見学した。最終的にイタリアのアドリア海岸のティモバで、多量の地下水が何ヶ所ものカルスト湧泉から湧き出るのをみた。またイタリアとの国境の町ゴリツアとノバゴリツアでは第二のベルリンの壁ともいわれた第2次世界大戦後の国境の痕跡を見た。この国境の壁が壊されたのは2004年で、ベルリンより5年おくれた。この国境周辺は第二次世界大戦のあと、二度、三度と国境が引きなおされたところでもあり複雑な国民感情の残るところでもある。

2014年9月9日
▲第2図 ポリエ群の分布と地表流

 ポストイナから内陸側のポリエ群を見学した。ポリエの定義は、ポリエの上流側にカルスト湧泉があり、ポリエの底の低地には地表流が流れる。その水はポリエの末端で、ポノールとして吸い込まれる。雪解け水や、長雨が続くと水位が上昇し、ポノールで排水する水量を上回る。この時一時的にポリエの底部に湖ができる。ポリエの典型例はラシュコポリエ、ツェルクニシュコポリエ(長軸方向10km余り,上田氏の写真を参照)、プラニンシュコポリエで ある。地形図とモデル図(第2図,第3図,第4図)を示したので、参照されたい。

▲第3図 ポリエ群と排水の方向(漆原原図)
▲第4図 ポリエ群のおよその標高と排水系(数字は標高を示す)(漆原原図)

 ポリエによく似たUnez低地は定義を満たしていないためウバーレであるとの説明があり、現場でその定義を確認した。これらのポリエの分布は北西から南東に走るイドリア断層線(右ずれ)と一致する。これらのポリエ群を経て排水される水系はすべてパノニアン平原(黒海)にむかう。日本のテキストでは、ドリーネからウバーレへ、そしてポリエに単純に発達するかのごとく説明されているが、ポリエのような大規模な凹地が発達するためには、排水システムを決める構造線のようなもう一つの要因が必要だと思われる。夕方5時に洞内の最後のトロッコが出発するという時間にやっとポストイナの洞窟に滑り込む。観光ルートしか見学できなかったが、観光洞だけでも21kmに及ぶ。ポストイナの洞窟はポストイナの盆地をフリッシュが覆うため、この不透水層の上を流れる豊かな地表水が洞内のダイナミックな造形を生み出している。鍾乳石の年代測定値は少なくとも45万年前までさかのぼる(写真参照)。この洞窟は13世紀にはすでに観光洞として、松明をもって入洞していた。トロッコ(3.5km)は1872年に敷設された(写真参照)。鍾乳石の成長速度の測定、生物系の観察などを行っている実験洞は残念ながら見学できる時間的ゆとりがなかった。

2014年9月10日
▲ポストイナ洞窟内の観光用トロッコ(長さ3.5km)(漆原撮影)
▲ポストイナ洞窟内の石柱(漆原撮影)

 クロアチアのプリティビツェにむかう最も長い一日であった。あいにくの雨にたたられ、 コラナ川に形成されたトウファダムの下流側は増水のため、台地の上からながめるのみであった。上流域はぬかるんでいて、足場も悪く、予定よりもかなり多くの時間を要した。しかしトウファダムを間近に見ることができた。コラナ川の急流部分の標高約650mから500mの間に大きな湖が16個あり、小さいものは約130におよぶ。上流域は、ジュラ紀の石灰岩であり、中流は白亜紀の石灰岩である。この地は1991年から1995年に至るまでセルビア、クロアチア、モンテネグロの内戦の舞台となり、観光客用のホテルも内戦の間、荒廃していたという。ここはUNESUCOの自然遺産に早くから指定されていたにもかかわらず、内戦中は、危機遺産に指定されていた。トウファの形成にはシアノバクテリアや植物がカルシウムの集積を助け、最終間氷期に形成されたトウファも若干あるが、その形成スピードは速く、プリティビツェの石灰華段丘の大半は完新世に形成されたものである。天気が悪く、鮮明な写真が撮れていなかったのでインターネットから転用した写真を参照されたい。

▲プリティビツェのコラナ川に形成されたトラファダム
▲プリティビツェのコラナ川をせきとめるトラファダム

 途中クロアチアにあったセルビア人の集落が幾つも焼かれ、廃村になり、土台だけの家や。弾痕が壁一面に残る家の残骸を見た。かつて人々がドリーネで耕作をし、放牧をしたであろう草地には「地雷に注意」のマークがされていた。まだまだ平和とはいいがたい風景をまのあたりにした。帰路アドリア海岸にむけてのルートをとった。ディナリック方向に複数のポリエが分布する。なかでも本格的なポリエの研究が初めて行われたという規模の大きいガッコポリエ(地質は三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の石灰岩)を横切り、ベレビット山地を横切って、セーニの港街に出た。ここは峡谷をなしているため、冬にとりわけ強風が吹くところでもある。1969年から1972年まで法政大学が貨車をもひっくり返すという冬の寒風ボラの観測をし、研究をおこなったところである。またベレビット山地の背後から地下水系が流下し、セーニ付近でカルスト湧泉として海水中に淡水が湧き出るところでもある。セーニではすでに夕闇が迫っているというのに、運転手は一定距離を走ると、45分の休憩を取らねばならないというので、一層ポストイナへの帰りがおそくなった。

2014年9月11日

 この日も雨で、アルプス方向に向かうが、眺望があやぶまれた。内陸のイドリア断層に沿って北上し、ソチャの源流を経て、ブルシチュ峠(1620m)を越えてサバ川の源流へでるルートをとった。峠付近はハイマツの一種であるムゴ松(Pinus mugo)となり、約1900mまでムゴ松帯が続く。

▲ボッヘン湖 最終氷期のモレーンにせきとめられた氷河湖
▲ボッヘン湖畔の13世紀のフレスコ画の残る教会

 イドリアでは中世以来水銀を採掘し、ハプスブルク家のドル箱であった。最近10年かけて水を入れ、閉山した。現在は、UNESCOの産業遺産に登録されている。この鉱山もイドリア断層沿いに位置する。近くにはネアンデルタレンシスが発掘された洞窟もある。北上し、東西に走るソチャ川の流域に入る。アルプスの山地を垂直洞として流下した地下川が、斜面の中腹で洞口から流出し滝になっている様子は、目崎氏の写真に示した。ソチャ川は最も美しい川といわれ、白亜紀の白い石灰岩地域を峡谷をなして流下する。しかし、第一次世界大戦時は、イタリア軍とオーストリー・ハンガリー帝国軍の最もシリアスなバトルがあったところでもあり、ソチャ川が、血の海になったと語りつがれている。ソチャの源流域からブルシチュ峠を越え、サバ川の流域に入る。スロベニアのアルプスでは最終氷期には雪線高度が1000mまで低下していたといわれており、周囲は氷河地形そのものである。しかし氷期以前にカルスト化を受けたカルスト地形は残っており、山地にはいたるところドリーネがあり、垂直洞が形成されている。最深は1300mに達することが計測されている。さらにサバ川沿いにくだり、氷河湖であるボッヘン湖(インターネット写真を転用)とブレッド湖(写真参照)をみる。いずれも最終氷期の氷河が退いていくときのモレーンが堰き止めたものであるが、ブレッド湖は、サバ川沿いの断層によってその位置を決定されている。11世紀から13世紀に建設された古城が白亜紀石灰岩の岩壁の上にそそりたつが、城の中には最終氷期の氷河作用のモデルがデジタルデータでしめされ、周辺に分布する岩石の標本が展示されている。観光しながら学習もできるように配慮されている。夜はローマ時代からのリュブリアナの街の発展と、首都として、大学都市としての役割を持つ古都を見学した。

▲ブレッド湖 最終氷期のモレーンによって
堰き止められた氷河湖古城は11~13世紀に建設された(漆原撮影)

▲ブレッド湖の中の島,11世紀から13世紀の建築様式の教会(漆原撮影)
2014年9月12日

 最終日はリュブリアナを早朝出発して、ベニスを1.5時間早足で観光した。40年前に見たベニスの輝くような美しさはなく、サンマルコ広場には常時水がたまっている姿に、古都の荒れていく姿を見て、断腸の思いにとらわれた。この都市の土台は700年ごろカルスト台地から切り出した石灰岩と、バルカン半島の黒松の大木がデルタに埋め込まれて支えているのだという。これらの土台は、還元状態にあってもすでにこの町の重みに耐えられなくなっているのか? 地球温暖化による海面の上昇も拍車をかけているのかなどの思いにとらわれた。

2014年9月13日

 全員無事に無事故で成田空港に到着。

参加者報告

糸魚川淳二
  1. カルスト学は多様な側面をもつ包括的総合科学で、アプローチも多彩。地形学・地質学・水文学・生物学・考古学などから。
  2. 地質学は「もの」の科学、地形学は「かたち」の科学と思っていたがそんな単純なことでなくて、それぞれ総合科学である。
  3. 石灰岩と水は相性がよいように見える。逆(相性が悪い)のケースもありか? 水のつくった景観は美しい。
  4. 国境と戦争。島国育ちの日本人にはよく理解できない事象である。
  5. 人の暮らしと自然はどこへ行っても調和している。ただし、都市を除いて。白い国スロベニアは落ち着いた、静かな国である。

▲ドリーネの中のソバ畑 スロベニア南西部Pliscovica(糸魚川登美子撮影)
大坪重遠

 私は電力技術者です。登山が趣味でしたから、自然に地学地質について聞き齧ってはいたのです。第二の人生に入って、あちこちと旅行に出るたびに地学について興味を持ち観察していました。エジプトのピラミッド、メキシコのマヤ遺跡、フランスはパリのカタコンベ、ラスコー洞窟、ルルドの泉、イギリス・ドーヴァーの白亜の崖など見ていて石灰岩地帯の多さを実感するようになっていました。一昨年桂林を訪ねた時は、カルスト地形の本家と言わんばかりの宣伝に乗せられ、知識の収穫を期待して赴き、失望して帰ったのでした。

 こんな私がネットで漆原先生からの「日本の石灰岩の地域は国土面積の0.5%に満たない。しかし、世界的には約12%であると試算されている。今回はカルストの名称の発祥の地であるスロベニアを中心に見学します。」という巡検の募集を見たのですから、一も二もなく申し込んだのはご理解いただけると思います。

 今回はスケールの大きい石灰岩地帯でしたから、ほかの影響を受けず本来の炭酸ガスが溶け込んだ雨水による溶食とカルシウムの析出の状況をよく観察できました。フリッシュ層がなく、ベッドの石灰岩類から非制御的に水が逃げてゆく状態では、ある時は天水を飲み水にせねばならぬほどの水不足、またある時は排水能力の不足で洪水被害を生ずるなど、ここにも人類の自然に対するチャレンジがあったことを知りました。

 クロアチアの生々しい内戦の傷跡も印象的でした。国境線があちこちと動き、民族が混在する状態は日本では想像もつきません。どんな手が打てるのか、かのチャーチルの「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」という言葉を改めて思い出しました。

羽田麻美

 日本では理解することのできなかった数10km~100kmスケールでのカルスト地域の排水システムを学んだことが,今回の巡検で得た知識の中で一番印象深く心に刻まれている。

 今回の巡検で説明を受けた,いくつものポリエや洞窟を通りながらアドリア海や黒海側へと流出していくダイナミックな排水システムを前に,世界のカルストとはこういうものだと一から教わった気がしている。また一方で,水位変化の激しいポリエに適応した人々の暮らし方には,日本とも共通する点もみられ,カルスト地域共通の水との関わりにも深い興味を覚えた。巡検を通じ,カルスト地形を理解するためには,地質構造からはじまり,岩石の特性,地下にある洞窟の構造等,多方面から思考をこらさねばならないことを感じ,単純ではないカルスト研究の奥深さを身に染みて感じた4日間であった。

 下見から当日の案内,事後のフォローまで,沢山の時間を割いてご教示下さった漆原先生を始め,現地でのレクチャーおよび案内をして下さったカルスト研究所のSlabe所長,Mihevc研究員,Otoničar研究員,Knez研究員には,心から感謝を申し上げます。本当に有難うございました。


▲地下には,巨大なシュコツィアン洞窟群が形成されている。流下してきた地下川(レカ川)が,一時的に地表にあらわれるカルストウィンドウとよばれる地形を望む。崖は高さにして約180mあり,かつてのドリーネの天井が崩落して出来たものである。再度洞窟系へ入った地下川は,その後,約35kmの距離を経て最終的にはアドリア海岸のティモヴァで湧水として流出する。(羽田麻美撮影)
上田道子

 バスでスロヴェニアに入ると荒涼とした地に白い岩が所々見えてくる。カルスト台地だ。石灰岩地域では、石灰岩の中に浸透し、溶かし、地下川となって流れるため地表は乾燥して植物は育ちにくい。国土の約半分が石灰岩だという。

 台地の上は耕作地は皆無であるようだがよく見ると所々作物を作っている所がある。ドリーネである。岩石の表面が溶かされたり、鍾乳洞の天井が崩落してできた丸い窪地にわずかに土壌がたまり耕作可能だという。

 内戦で廃村になったクロアチアの村を見る機会があった。小さいドリーネが点在しその脇に家が建ち、かつて人々がわずかな耕地を耕してそこで生活をしていたことを生々しく教えてくれた。

上田真理子

 スロベニア見学旅行で最も印象に残った現象は,カルスト地形におけるポリエの排水系です。標高1,114mの山からはCerkniskoポリエとその周りの山が一望でき,冷気湖の存在からLoskoポリエとPlaninskoポリエの位置を確認できました。現地見学により,Loskoポリエの吸い込み穴から地下へと流れた川がCerkniskoポリエに湧水として現れてポリエ内の地表河川となり吸い込み穴から地下へと入り,途中ウバーレを挟みPlaninskoポリエに水が湧き出る一連の流れを実感できました。その一連の流れが黒海まで続いていることをお聞きして,そのスケールの大きさに驚きました。ポリエでは湧水・地表河川・吸い込み穴を含む排水システムが成り立っており,切り立った崖と平らな低地が特徴的でした。


▲LoskaポリエとCerkniskoポリエ.写真左奥の冷気湖が形成されているところがLoskaポリエ.右側にはCerknisko湖の一部が見られる。(上田真理子撮影)

北村晃二

 今回の旅行は、9月6日から13日まで約1週間の日程であったが、目的であるスロベニアのカルスト地形を見る期間は実質4日間でしたが、密度の高い巡検でした。

 出発前、漆原先生のオリエンテーション、現地にて、カルスト研究所の方々から地形、地質の事前勉強会と、地形、地層の門外漢の私には戸惑いすら感じた力のこもった巡検でした。

 初日のシュコツィアン鍾乳洞には、ダイナミックな自然の造形に度胆を抜かれる様な衝撃を受けました。翌日のボストイナ鍾乳洞も凄く、これだけでも充分満足感にひたった旅行でした。カルスト台地では、天井が溶食を受けて無くなった洞窟を見た。

 4日間を通して、漆原先生からは、熱心にドリーネ、ポリエ等を交えながら、カルスト地形・台地について解説していただきました。

 先生の長年に亘る研究の思いが充分伝わった巡検でしたが、この旅行を自分のものだけにしては申し訳ないと思い、帰国後、旅行のみやげ話を聞く友人たちに、「カルスト地形」を見に行ったと報告しています。「カルスト地形って、何?」とほとんどの人は聞き返します。「鍾乳洞が凄かった」と付け加えると、やっと納得してもらえる有様で、私を含めて、地学は難しいと思いこんでいる人に、地球の不思議をやさしく伝えるのは難しいと実感しています。


▲かつての洞窟にあった大きな石筍の前に立つ筆者(北村晃二撮影)
目崎茂和

 カルストの本場ならではの、スロベニア・クロアチアの地形景観・現象を、存分に堪能できた巡検であった。アルプスの氷河地形地域からアドリア海沿岸まで、気候植生帯ごとの生活文化、観光地化まで広範な歴史地理事象の理解も深められ楽しめた。

 とくに印象深いカルスト景観として、世界の中でも、おそらく稀少例と思われる、洞穴排水口からの瀑布を写真に掲げた。


▲スロベニア北部 ソチヤ川河岸垂直洞から地下川が滝となって流出する。(目崎茂和撮影)
安藤奏音

 最も印象的だった地形はポストイナ洞窟であった。入口から徒歩観光コースまでの約2kmをトロッコで移動する間に視界に飛び込んできたのは、淡い光に照らされ艶を帯びた石筍とそれらを映す静かな水面。その幻想的で地球史の壮大さを感じさせる情景に私はすぐに心を奪われた。天井からの水滴を肩に受けながらトロッコで風を切り、奥へと邁進する爽快感がたまらない。地に降り立ち、天井を仰げば今にもこの身に降り注ぐような数多のストローやカーテンが私を見下ろしていた。ふと洞窟内の灯が消え、前方から僅かな風が指先に優しく絡みついた。暗闇の中で、ただ地球の鼓動だけが感じられた。灯が戻って出口に近づく頃には、カルストの研究を博士課程まで…否、それ以降も続けてゆこうという気持ちが強固なものとなっていた。


▲ポストイナ洞の鍾乳石(安藤奏音撮影)
高野武男

 今回のスロベニア国のツアーは、当国が世界的なカルスト地形の発達する土地であることから、特に地形に注目して観察した。その他に植生、集落の立地や景観にも観察の目を向けた。地形については、日本では見られない溶食地形であるポリエを見たが、カルスト台地はすでに植生に覆われており、典型的なカレンフェルトは見られなかった。丘陵地の植生はトウヒの樹林が特徴的であったが、モミが見られなかった。鍾乳洞の観察では、その規模と鍾乳石の多様な造形美に圧倒された。農村は丘陵の麓に分布し、必ずキリスト教会と尖塔が見られ、日本の農村ごとの神社の存在に似ていると感じた。その他古城の立地、湖水の美しさ、偏形樹によるボラの強さなども印象に残った。

藤井正美

 スロベニアと縁があり、今回は三度目の訪問となりました。最初は1988年、旧ユーゴスラビアの時代です。東西の共和国の間で緊張感がありましたが、リュブリアナから列車でベオグラードへ行くこともできました。二回目は2000年、内戦も治まり、スロベニアは独立国になっていました。今回、2014年はカルスト地形の見学の旅でしたが、ブレッド湖畔で名物のクリームケーキをもう一度味わうというのも密かな目的の一つでした。

 ポストイナからクロアチアのプリティビツェへ向かう途中、戦禍で廃墟となった村を通りました。戦争をして良いことなど何一つないのに、どうして争いが絶えないのか暗澹たる気持ちになりました。

 朝の出発が早くホテルに戻るのが夜遅いのは辛かったですが、途中の移動は大型バスでゆったりとくつろげました。車窓の風景に加えて、漆原先生によるポリエやドリーネの成因についての解説や民族の歴史と文化についてのお話は興味のつきないものでした。

 道路脇に見える石灰岩の露頭や遠くの山の斜面は、層理のはっきりしたものと塊状のものがありました。この差がどこからくるのか、このように厚い石灰岩の層がどうしてできたのか、ネオテティス海の堆積環境とテクトニクスの勉強を始めたところです。


▲クロアチアのネオテテイス海の石灰岩  セーニの街を望む峠道にて(藤井正美撮影)